非モテの原理 〜交際未経験アラサーメンヘラ男は如何にして完成するか〜

 Twitterを続けていると、女性のアカウントが「メンヘラおじさん」のDMを晒している場面に度々出会う。相手が拒否しているにも関わらず、「自分と交際してほしい」という旨のメッセージをしつこくしつこく送ってしまう"キモい"人種である。あるいは最近だと、女性Vtuberに(いわゆる)ガチ恋して、スーパーチャットで自分の存在を認知してもらおうと躍起になる人が、笑いのネタや迷惑リスナーの代表例として晒し上げられる。(大抵の場合は万単位の額を投げ銭しているので、社会人だと思われる)
 多くの人々にとって、メンヘラおじさんは"怪物"に見えるらしい。ネットでちょっと知り合った程度で、何処の馬の骨とも分からない男に好意を寄せるはずがないのに、相手の気持ちも考えず半ば強引に言い寄ってくるおじさんは、恐怖の対象でしかないだろう。また、このような人々に関して取り上げられる時、女性経験がないことを推測し、それを揶揄・批判する内容の意見が添えられることが多い。「○○歳にもなってまともな恋愛をしたことがないからそうなる」といった具合の論調だ。
 
 私にはこの"怪物"たちの思考・境遇が何となく分かってしまう。また私は現在22歳だが、(中高は共学だったにも関わらず)未だ交際経験はない。
 残念ながら私は怪物予備軍なのだ。

 ここでは非モテが如何にして生産されてしまうか、怪物メンヘラおじさんはなぜ生まれてしまうのかを、自身の経験を踏まえて記しておこうと思う。私自身が怪物にならないためにも、数年間考え続けてきたことを一度言語化して纏めることには意義があると感じた。


○話を進める上での前提
 当然だが、人にはそれぞれの生い立ち・経験があり、それらを一般化するのは難しい。ここでは以下のような前提を置いた上で推論を進めていきたい。
 まず、今回取り上げているような、女性経験がなくメンヘラ化してしまう人々を「怪物」、普通に恋愛を経験し真っ直ぐに育った人々を「健常者」と呼ぶことにする。
(怪物という仮称が鬱陶しければ、「ド陰キャ」「キモオタ」と読み替えていただいても差し支えないと思われる)

前提⓪:男性である
 単に交際経験がないという条件だけなら女性でもあり得るが、ネットでバッシングの対象となるのは大抵男性である。また性差は重要な因子であるため、ここでは男性に絞って論を進める。(私が男性だから、女性の世界を書くことができないという事情もある)

前提①:メンヘラは「自己肯定感の低さ」が原因である
 自己肯定感が低いと、まずモテない(後述する)。周りに女性がほとんど来ないので、たまにやってくる女性に好意が集中することになる。すると、そんなつもりはない女性側は気味悪がって離れてしまう。フラれたことにより、更に自己肯定感が下がる。
 このように、メンヘラは負の循環に陥ってしまった哀れな人種である。

前提②:自己肯定感の低さは、教育ママ的な育児が原因である
 ここはやや仮定的になってしまうが、人は自分の見てきたものしか語ることができないので、お許しをいただきたい。
 教育ママ的育児とは概ね以下のような教育方針を持つ。
・勉強を神聖化する、勉強以外の活動は時間の無駄である
・点数や合否などで示される"結果"が子供の評価の全てである、結果が伴わなければ過程も全否定される
そして長きにわたる教育の結果、子供は同じ価値観を内面化すると考えていただきたい(後述)。
(追記:1番多いと思われる"勉強"で論を進めるが、これは自分と同じ専門を強要し、一方的な教育を施そうとする音楽家やスポーツマンに置き換えても似たような話ができるだろう)


○自己肯定感の喪失
 そもそも健常者の自己肯定感の源流は、親の愛情だろう。「個性を認め、成果が小さくても褒める」という真っ当な可愛がり方をされて育った子供は、小さい成功体験を積み重ね、自己肯定感が育っていく。
 対して教育ママ的育児の元では、よほどの天才でなければ「肯定される回数<否定される回数」となる。「上手だね」という言葉を期待して描いた絵を見せても、代わりに飛んでくる言葉は「そんな暇があるなら勉強しろ」である。分からないことを分かるようにするために勉強しているのに、「なんでこんな問題も解けないんだ」と分からないことを咎められるから、なかなか成長しない。好きなことは受験のために諦めさせられ、塾で悪い点数を取って帰ってくる度に罵声を浴びせられる。
 そういう幼少期を経て、「自分の個性は何の意味も持たない無価値なもの」「結果が出ないことは失敗であり、結果の出せない自分は価値がない」という考え方を体で教え込まれる。自己肯定感はマイナスの方向にばかり育っていく。
 
 そうして中学・高校受験を迎える。嫌々勉強して良い結果が出る人は稀だから、大抵の場合第一志望不合格という"結果"になる。教育ママは怒り狂い、考え得る最大限の誹謗中傷を浴びせるだろう。10数年を生きても、成功体験らしい成功体験は積めない結果となる。
 また、万が一合格したとしても、進学すればそこには入試に受かった人しかいないのだから、実質的に成功体験はなかったことになる。勉強以外のことは受験の障壁だと辞めさせられたのに、いざ進学してみたら勉強も運動も楽器もできる奴が何人もいる、自分のやってきたことは何だったのか、という問いに苦しめられる。
 いずれにせよ、自己肯定感は完全に失われ、自分は劣等種だと信じて疑わなくなる。笑顔は消え口数は少なくなり、表情筋を使わなくなるから、頬に贅肉がついた「チー牛」になるか、頬の肉が削ぎ落とされ骨と皮だけになった逆三角形顔面になり始める。この状態から思春期をスタートさせることになるのだ。

○思春期での失敗、恋愛からの逃避
 不幸にも共学に進学してしまった怪物の卵たちは、性本能に従って異性を意識し始める(男子校に進学した者達も、時間差で同じ境遇を辿ることとなる)。スクールカースト上位からどんどん彼女ができていき、休み時間は恋バナなるものがひっきりなしに繰り広げられる。こうして恋愛競争が繰り広げられる教室に毎日通わなければならないから、彼女が欲しいと思ってしまうのは当然だ。
 しかし、怪物たちの恋路にはろくでもない終着点しか待っていない。成功体験に裏付けられ希望に満ちた顔のオスと、劣等感に打ちひしがれ歪んだ顔、すなわち「キモい」オス、どちらが選ばれるかは比べるまでもない。
 大抵の場合、勇気を出せずにウジウジしてる間に、好きだった娘に別の男ができて失恋する。仮に勇気を出して告白しても断られて、クラスの女子グループで「きっしょwww鏡見てこいよwww」と笑われるのがオチだ。見た目より中身とはよく言われるが、人間は所詮ルッキズムの支配から免れることはできない。精神的な発達途上である思春期では尚更だ。怪物達の醜い顔面についてはこの言説の対象外である。そもそも怪物が接触できる女子というのは、コミュ力カンストしていて誰にでも話しかけるような人種だけだから、男は選び放題であり、その中から劣等種を選択する理由が全く存在しない。
 
 さて、ここで重要なのは失恋後である。健常者の場合、仮に失恋しても「相性が悪かっただけ」とすぐに切り替えて、次の恋愛にチャレンジできる(らしい)。しかし怪物の辿る思考は全く異なる。
 失恋というのはいわば、交際を志望していた異性に選ばれなかった、つまり「不合格」という"結果"が出された状態にあたる。ここでの評価基準は、今までの生き方の積み重ねという過程で形成された「人間性」である。よって前提②より、怪物にとっての失恋は、評価基準である「人格」、および人格形成過程である「人生」を否定されたことに等しい。

 健常者の皆様には大袈裟に捉えられるかもしれないが、怪物にとっての失恋はここまで大きな苦痛を伴う。勉強の出来・不出来による否定は耐性がついていても、人格の否定は耐え難い。失望と嫉妬に苛まれ、立ち直るのに3ヶ月は要する。
 過度のストレスを経験し、自分に恋愛の不可能性・失恋の恐怖を理解した怪物達は、その後の恋愛と無縁の学生生活を選択する。これがいわゆる「陰キャ」と呼ばれる層の構成員になるわけである。我々は望んで恋人を作らないのではない、作ることができないのだ。
 
○メンヘラ特質の獲得
 いわゆる"大人の世界"に入ると、健常者達は結婚を視野に入れるようになる。同僚や友人が次々に結婚していく中で、長い間恋愛から逃げてきた怪物達も流石に焦り出す。親からの圧力もあるだろう(息子の顔面をよく見て欲しいものだ)。この段階で一生独身の覚悟を決めている者達は尊敬に値するが、残念ながら全員がそうなるわけではない。
 しかし、女性と交友を深める方法、交際に至るまでのステップの一切を知らず、年相応の恋愛観を形成できていない怪物達が、パートナーを見つけることなどまず不可能だ。
 また、女性からすると、女性経験の乏しいオスなど今更相手したくない。聞くところによると、女性のほとんどは普通に生きているだけで告白される経験を持つらしい。これが本当ならば、2x年生きてて交際経験がないことは、女性目線では「人間性に相当の問題があり」という評価になってしまうのだ。
 女性慣れしていないことは、少し会話すればすぐにバレてしまう。女性離れがますます深刻化する反面、世間的に言われる結婚適正年齢である30に近づくにつれ、いよいよ後がなくなる。

 そこで辛うじて知り合いになれた数名の女性にすがる形になる(リアルでは女性に嫌煙されてしまうから、ここでの知り合いは所詮"TwitterのFF"程度の関係性である)。怪物達には、最早どうやったら仲良くなれるかを模索する時間・余力も残っていない。踏むべきステップを何段もすっ飛ばし、交際を迫る。それを拒否されてもなお、自分がいかに不遇で哀れな人間かを語り、情に訴えようとする。怪物にはそれしか方法が思いつかないのだ。

 こんな惨事を繰り返し、前提①の通り負の循環に陥る。この過程を経ると、怪物として完成してしまい、二度と健常者に戻れなくなる。これがアラサーメンヘラおじさんの正体である。


○もう一つの非モテの要因:誤った恋愛観の形成
 上では女子・女性に忌避される理由として、「ルックスの醜さ」をメインとして話を進めたが、必ずしもこれに当てはまるわけではないだろう(陰キャにもそこそこ顔立ちの良い人はいる)。もう一つ大きな要因として考えられるのが、「誤った恋愛観」だ。
 私は恋愛を成就させたことがないので、正解を知っているわけではないが、恋愛エアプでも分かる、恋愛成就に最低限必要な手法・考え方は以下の通りだと推測される。
(0)異性の知り合いをできるだけたくさん作る
(1)自分のいいところを全面に押し出し、それを魅力と感じてくれる異性を知り合いの中から探す
(2)自分の悪いところを隠す
(3)恋人とは「遊び相手の延長」・「(広義)性的行為を許容できる/してくれる相手」である

 しかし怪物達はこれらの全てを満たしていない・誤って理解している場合がほとんどである。

 怪物達にはそもそも友達が少ない、女友達ともなれば0である場合がほとんどだ。健常者を見ていると劣等感を刺激されるため、自分に似た怪物予備軍を探して結束することで、自分のメンタルを守る傾向にある。そんな中で女友達ができる確率は極めて低い。
 また自己肯定感が低く、自分のいいところを見つけられないため、(1)を満たせない。「自分には全く魅力がない」と本気で思っている(し、側から見ても実際そうだと思う)。さらには(1)後半における女性の選択肢が、片手で数えられるほどに少ないため、辛うじて自分のアピールポイントを捻り出したとしても、それが相手の好みに合致する確率は低い。
 そして最も怪物達が誤解しているのが(3)である。怪物達が恋人に求めるのは「自分の個性を認め、欠点も含めて許容してくれる存在」であることだ。これは本来ならば(母)親が担うべき役割であるが、前提②の教育方針によって個性を認められなかったために、その役割を他の身近な女性に求めてしまうのである。
 この誤解のために、(2)のように欠点を隠すどころか、先に自分の欠点を開示してしまう。「自分は劣った人間ですが、それすら受け入れて今までの人生の苦痛を癒して欲しい」というのが、怪物達の基本的なスタンスだ。他人に欠点を指摘されるのが怖いから、自分から先出ししてしまおうという考えもあるだろう。
 こんな有様だから振られるわけだが、その結果「自分を受け入れてくれる人はいない」と病むことになる。人間はそんなに優しくできていない。恋愛は自分をうまく偽ってなんぼなのだ(DV彼氏の存在がいい例だ)。
 厄介なことにこの誤りを指摘してくれる人は中々いないため、修正することが難しい。この間違いを犯したまま、大人になってしまったのが怪物であるとも言える。


○終わりに
 筆が乗ってしまったため長々と書いてしまったが、ここまで読んでいただければ、メンヘラが如何に救い難き人種であるかご理解いただけただろう。

 女性のメンヘラを対象外としたのは、誰からも相手にされない男性メンヘラと異なり、女性の場合は「どしたん話聞こか?」族の存在があるためである。女性の不遇は性欲の対象となるが、男性の不遇は全くならないため、同じメンヘラでも性別によって質が違うものだと考えられる。

 メンヘラは穴の空いたバケツによく例えられる。その穴を自分で埋める術も知らないどころか、カサブタを自ら剥がすが如く穴を広げていく。
 穴を塞いでくれる人は残念ながら現れない。なぜならキモいから。
 できるのは、同族同士で傷を舐め合って健常者を呪うことだけだ。なぜならキモいから。

祖父の死を悲しめない

 つい昨夜、父方の祖父が亡くなった。1ヶ月ほど前に倒れて緊急入院し、その時は意識を取り戻したものの、数日前にまた意識を失ってしまい、そのまま天寿を完うした。

 突然の別れというわけではなく、父親の口ぶりからもそのときが近いことは頭で理解していた。しかしこうしてその事実を母から告げられ、実家へ向かう父の顔を見てから、自分の感情というものに疑問を感じずにはいられなかった。

 記憶が鮮明な内に、これを言語化して他人に見てもらいたいと感じたので、こうしてブログを開設してまで残しておく。稚拙な文章で、かつ重苦しい話を聞かせてしまい恐縮の至りだが、読んでいただければ幸いである。

 

 私は母方の祖父を幼稚園のときに亡くしている。葬式という場に出て、おじいちゃんが棺が焼べられるのを見送るときに、死という概念を心で理解したあの感覚は今でも忘れられない。

 幼い自分がこのときどのような感情の動きを示したのかを思い出してみる。

 葬儀が始まってからの流れはよく覚えていない。目を閉じたおじいちゃんの顔に花を添えてから、誰かが何かを喋っている内に、その場にいた大人たちの嗚咽が次第に大きくなった。ついに隣にいた父ちゃんがハンカチで目尻を抑え出した。それを見てはじめて、周囲の人間に共感するという形で、自分のストレスを泣くという情動反応に変換することを覚えた。それから、どんぐりのたくさん落ちているあの公園で手を繋ぎながら一緒に歩くことも、タバコの匂いが染み付いた腕で抱き上げられることも、もう二度とないのだと悟って、永遠の別れに対する悲しみを自覚した。父ちゃんのスーツに顔を埋めて泣いた。


 一昨日の段階で「葬式は子の世代まででやることになったから、孫のお前たちは参加しなくていい」と両親に聞かされていた。どういう事情でそのような形になったのかは知らないが、このような別れに対して、私が抱いた感情は悲しみではなく違和感と不安だった。果たして私はこの人の死に対して悲しむことはできるのだろうか。

 そしてこの不安は今日という日を迎えて現実となってしまった。全く悲しめない。


 感情とは脳内で独りでに生み出されるものではなく、身体の情動反応に対する知覚らしい。「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しくなる」という話を聞いたことはないだろうか。であれば更に問いを進めて、何が原因で泣くのかを考えなければならない。

 今回のケースに当てはまると、人が亡くなったことに対して泣くためには、「その人の喪失による膨大なストレス」が原因だろう。つまり私は祖父の喪失に対して(全くないとは言わないが)大きいストレスを感じなかったということだ。

 というのは、近しい存在としての「おじいちゃん」を、私は既に喪失しているからだ。受験勉強に専念しろという理由で、私が高校2年生になってから家族揃っての帰省をしていない(私の受験が終わっても弟が受験期なので、やはり帰省はしていない)。更に言えば、心的距離が離れたのはもっと前からだ。中学生になってからというもの、祖父母と会う喜びよりも、自分の時間を犠牲にしてまで老人に会うことの虚無感の方が圧倒的に勝っていた。今の私にとって、祖父は「たまたま血縁のある赤の他人」である。


 ここまで読んでくださった皆様は、私の為人をどう思っただろうか。人でなしだと思うだろうか。他でもない私も、このような思考を巡らせている自分を気味悪く思っている。素直に悲しめばいいのに、泣かなくていい理由ばかりをつらつらと述べて、何に言い訳しているのか。

 いつからこんな人間になってしまったのか。

 むしろこれが普通の人間なのだろうか。

 人間として正しい在り方とは何なのか。


 悲しむチャンスがあるとすれば、それは葬儀に出ることだろう。別れの場にいれば、幼稚園の頃と同じように、他人から流れこむ悲しみを共有して、泣くことができただろうか。しかし葬式に出られないと告げられた時点で、私と回復の見込みがなかった祖父は、既に死別している。


 この文章は大学の行き帰りに電車の中で考えて書いている。1日の過ごし方は昨日までと何ら変わらない。めんどくさいと思いながら教室で製図の課題をやって、今こうして電車の中でスマホをいじり、帰ったらゲームを始めるのだろう。